真言宗津軽仏教会の成り立ち
真言宗津軽仏教会の前身である津軽弘法大師霊場会は、昭和五十九年に発足しました。
真言宗の宗祖・弘法大師様が、高野山の「奥の院」に御入定なされて千百五十年目の御遠忌に際し、青森県の津軽地方にある真言宗の寺院二十三ヶ寺が手を携え、お大師様のご遺志を広く伝える為に津軽弘法大師霊場会を組織し、二十三のお寺を巡る津軽弘法大師霊場を定めました。
平成十一年には、会の名称を真言宗津軽仏教会と改め、現在に到っています。
津軽弘法大師霊場について
津軽は古くから巡礼の風習が根付いている地域であったので、今では津軽弘法大師霊場の巡拝も盛んに参られるようになりました。札所の数も二十三ヶ寺と少なめなので、地理に詳しければ乗用車で二日間で成満できます。
札所は、津軽の城下である弘前市から始まり、そのあと霊峰岩木山から西海岸に抜けます。進路を東に取り、立佞武多で有名な五所川原市から県庁所在地の青森市、津軽内陸地方の黒石市、平川市と巡り、弘前の南、古くからの湯治場である大鰐、碇ヶ関に至り満願成就となります。
巡礼の目的は様々で、ある人は先祖供養の為であり、又ある人は心の悩みの為でもあり、また、自己を見つめ直す機会でもあるでしょう。
津軽弘法大師霊場をお参りする事によって、そのような皆さまの心が少しでも晴れるならば幸いです。
真言宗と弘法大師(こうぼうだいし)
真言宗を開かれた空海(弘法大師)は宝亀五年(774年)に、現在の香川県善通寺で生まれました。幼名は真魚(まお)と言い、父は讃岐国の郡司の役職にありました。
幼少の頃より聡明で知られ、十八才の時に京の大学に入ったものの、それに飽きたらず十九才になると山野を巡って山岳修行も始め、それと共に仏教の漢文や梵文の経典も学んでいたようです。
また、洞窟で修行をしていた時、目に映った風景は「空」と「海」だけであったとして、空海と名乗ったのもこの頃とされています。
既にこの頃から自身の進む道を仏教としていたと思われます。その証拠に、二十四才の時に著した、後の論文「三教指帰(さんごうしいき)」の基となる「聾瞽指帰(ろうごしいき)」では、儒教・道教・仏教の中で仏教が一番優れていると論じています。
当時、仏教をよりよく学ぶ為には中国(唐)に渡る事が最善でありましたので、延暦二十三年(804年)、留学僧として特に密教を学ぶ為に遣唐使の船に乗り入唐しました。
唐では精力的な活動で、長安において般若三蔵より梵語の教えを乞い、恵果阿闍梨からは真言密教を学び、半年という短期間で密教のすべてを修め、恵果阿闍梨の亡くなった時に、すべての弟子を代表して碑文を起草するまでになりました。
留学期間は二十年間の留学僧でしたが、いち早く日本に密教を伝える為に僅か二年で帰国。帰国にあたって密教経典461巻・仏像・仏画・法具など多数の品物を日本に伝えました。
留学期間の途中で帰国したため九州の大宰府に数年間留め置かれましたが、持ち帰った密教の教えの価値が認められ、後に許され都に戻ることになりました。
都では、嵯峨天皇の勅願によって鎮護国家の修法を行い、私学「綜芸種智院」を開設し、讃岐の満濃池の改修工事に携わるなど、数々の事業を成しとげ、承和二年(835年)六十二才で高野山に御入定(ごにゅうじょう)なさいました。
空海(弘法大師)によってインドから中国を経て日本に伝えられた密教の教えが、現代の真言密教(真言宗)となって我々の世代まで続いているのです。
ちなみに、弘法大師という呼び名は、御入定後百年ほど後の延喜二十一年(921年)に醍醐天皇より贈られた大師号です。
「お大師さま」の信仰
「祖師は日蓮に奪われ、大師は弘法に奪われる」落語の文句にこのようなものがあります。