【巡礼のしかた】寺院で手を叩くのは変ですか?
寺院で拍手を叩いていいの?という質問がよくありますので、お話をしたいと思います。
実は、お坊さんはお寺で手を叩いています。
他の宗派は分かりませんが、真言宗では手を叩く作法があります。
なので、「お寺で手を叩いていいの?」と聞かれた場合は、「叩いていいです」と答えます。
辞書には何て書いているのか?
では、作法というのはどういったことかというと、辞書を見ると書いてあります。
たとえば、「密教大辞典」によると、
金剛拍ともいふ。
両掌を拍ちて聲あらしめ、聖衆をして歓喜せしむ。
拍掌には除障・驚覚・歓喜等の義あれども、修法中諸処に用うる拍掌は多くは歓喜の義なり。
神前にて拍掌するはもとこの拍掌より起り、世に「かしはで」といふは拍を柏に見誤りてかく言ひ伝へしなりといふ。中略
三度拍つは三部の諸尊を歓喜せしむる義なり。
そして、手のたたき方は、二回音を出さないぐらいに密かに打ち、一回を音を出して打つ。
流派によって違いがあり、始めの二回を密かにして最後に一回音を立てる方法と、最初に一回音を立てて後の二回を密かに打つ方法がある。
という事が書いていました。
その他の辞書では、以下のとおり。
拍手(ハクシュ)とは – コトバンク
世界大百科事典 第2版より引用
一般に両手を打ち鳴らす拍手は,歓迎,共感・賛意・賞賛,誓約,歓喜・感激・感謝などの感情を表現する身体的動作で,手拍子(てびようし)も拍手の一種である。
古代中国の《周礼》九拝の第四には〈振動〉といって両手を打つ礼があった。密教儀礼の壇上作法の一つである拍掌(びやくしよう)は,魔を除いて諸仏を歓喜せしめる意で,3度両手を打つ。
最初の2度は軽く手を合わせるだけで,最後は音をだして打つ。
3度打つのは修行のさまたげになる惑(わく)・業(ごう)・苦(く)の三障(さんしよう)を取り除くことを意味する。
拍手(はくしゅ、かしわで)とは、神道の祭祀や神社・神棚など神に拝する際に行う行為である。
柏手と書かれることもあるが、誤りである。また、開手(ひらて)ともいう。両手を合わせ、左右に開いた後に再び合わせる行為を指す。
通常、手を再び合わせる際に音を出す。
音を出す理由は、神への感謝や喜びを表すため、願いをかなえるために神を呼び出すため、邪気を祓うためといわれる。
また、凶事や悲しみを表す行事においては音を出さない作法(後述)もあり、この場合は、音を出さないのは故人の霊を祓ってしまわないためなどと説明される。
歓喜。つまり喜びを表す動作として修法中に行います。
手を叩くのは敬意を表す
古い話ですが、魏志倭人伝という中国の書物があります。
その中に書いてあるのですが、邪馬台国の卑弥呼の時代には、日本では貴い人や神などに拍手をする風習がありました。
神様仏様の他に、人にも拍手をして迎えたんです。
これが、平安時代になると中国式にひざまづいて迎える風習に変わってくるのですが、現在の神社の二礼二拍一礼に通じる考え方でした。
ちなみに、演劇などが終わった時にする拍手は明治以降に西洋の風習を倣ったもので、江戸時代までは芝居中は音を出さないことがルールであったそうです。
なので、仏教儀式でも仏様に敬意を表す、お迎えする喜び表す意味で、拍手をする作法が加わったのです。
参拝の人がお寺で手を叩いていいのかまとめ
しかし、普通考えるとお寺では手を叩かないのが常識ですよね。
現在の一般常識で、神社では手を叩いてお寺では叩かないというのは、明治時代の廃仏毀釈の影響なのです。
古来からお寺も神社も手を叩くことには変わりなかった歴史があります。
明治政府がお寺と神社を区別する政策をとったので、拍手も神社のものとしたのですね。
また、お寺がお葬式をする所というのが一般的になって、喜びを表す動作をするのが不謹慎だと思われて、現在の常識が生まれたのではないでしょうか。
ところが、現に見ていると、津軽の人のおおよそ半分はお寺で手を叩きます。
これは、神仏習合の風習が今も繋がっている土地柄だからといえるでしょう。
まとめ「お寺のお参りで手を叩くのは良いですが、お葬式の時は手を叩かない様にしましょう。」
追伸:
ネットで検索すると、Q&Aサイトでは、お寺で手を叩いて良いのと悪いのとは4:6ぐらいの回答で悪いが若干多いです。
また、よそのお寺のサイトで参拝方法の説明で、1回礼をして、手を2回叩き、また1回礼をする解説されてる所もありました。
参拝の仕方 – 飛不動尊